音楽の話を進める過程で参照した本

参照できてないですけど。

これ以外にもあれこれ読んでるんですが印象に一定以上残ったものを挙げておきます。


 KORGの安価なmicroKEY-25を膝に載せながらブラウザピアノを鳴らして喜んでる私、またX度の音程計算の解釈やコードの仕組みの初歩的なところを鍵盤で試し弾きして面白がってる私のような読み手に、本書のような研究書は「無謀」の一言ではあったけれど(スコア分析も当然がんがんでてくるのだ・・)、どうしても気になった。だから買ってまで読んだ。ということで、非常に狭く限定的に理解したテーマ系を私なりに飲みこんだ上で言うと、(著者の企図には反するかも知れないが)たとえば人文系ではジャン・スタロバンスキー『ソシュールアナグラム』に通じるスリルがあると思った。12音技法あるいはトータルセリエリズムに基づいた楽曲にまでもなにかしらの調感覚を感じとれる・とれないという側面にかぎって言えば、おそらく否定する根拠も肯定する根拠もはっきり明確なしかたでは見つけづらいと思うけれども、その作業が無益になる訳ではなく、どちらにも等しく言い分が持てそうな秤の世界下でひとつの方向を選びとる道行きにしだいに意味が芽吹いてくるのだと思いたい。ブーレーズの"構造I&II"を聴いてあやうく竹村延和を見いだしてしまうこと(「かわいいもの」としての無調感覚・・・?)。


 とくに音楽と言語汚染についての箇所に注目して読んだ(「解説、標題、感想、すなわち言葉が音楽のまわりに付与されるほど純粋な聴取はできなくなる」という一般的なリスナー態度に対する応答)。また、音楽と情動についての議論は次の『悲しい曲の何が悲しいのか』でより形式的に整理されている。


 本のメインテーマとは言えないが音の空間的ステイタスをどこに見るかの議論(第6章「音を見る、音に触れる」)はおもしろく思った。ペルソナ説はそう用語化されるとなんか嫌です~~~と思ってしまうけど()一方で言わんとしていることは無視できないものがある。聴取する際のイメージボディ。


 音楽研究分野でおそらく最初に手にとった一冊。「なぜ難しい音楽は作られたか」「三和音の帝国」「感情労働としての音楽」など魅力的な題に沿って短いコラム風のテキストが詰まっている。文章が持つ人当たりの質(?)になんとなく荻原裕幸に似たものを感じました。過度に糾弾的にならずに問題を提起してみせる肌感覚というか。その分個々のテーマについては物足りないものを残すのは良し悪しでもあり。


 「作品、テクスト、歴史」「音楽とジェンダー批評」などテーマ別に分けられた論集。キュージック、キヴィー、ゲーアなど英米の音楽研究者の各論述はその専門性もあって単体では必ずしも理解しやすいとは言えないものの、編・訳兼任の福中冬子による解題で要点を押さえることができる。しかしまずなんといっても一辺倒ではない多彩な議論領域を咀嚼した上での、福中自身の音楽研究上のパースペクティブへの切りこみの強さに圧倒される。訳出紹介されている論文に対しても、その問題点や両義的な意義が看過されることはない。音楽史上での偉大なカノンに批判的・挑発的であろうとするとき生じる問題をめぐっての、フェミニズムからの視点などは『ジェンダー史叢書4 視覚表象と音楽』における小林緑、西阪多恵子の見通しとも共有するものを持っていると思う。


 ビデオゲームのBGMを考えるにあたって環境音楽からアプローチできないかと思い手にとった。1986年に出版された環境音楽をめぐる論集。『波の記譜法』という非常に美しいタイトルはこの論集の参加者であり音楽家、芦川聡によるもの。上に紹介した若尾裕、サウンドスケープ論の鳥越けい子、『聴取の詩学』などを著した庄野進など後に各方面で活躍する書き手が揃っているというところも印象深い。