ケルベロスの聴き方(1.5)──モノクロな配信者

道化師ココの「死なないで」

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フライシャー兄弟によるロトスコープアニメ「インク壺」シリーズ(跳ね豆の回)、1922年*1
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同上

 100年経ったらまたおいでとなにかで聞いた。私も素直なので(?)およそ100年前のアニメーション映像を見たりする。そして、これ、配信じゃん(ハンス・ベルメールの画集をめくっていてとあるデッサンが人体を完璧に正方形の箱に変形させたものを見て「特殊性癖のやつじゃん・・・」と薄笑いを浮かべる程度の無邪気な感想にすぎないにせよ)。宮本裕子*2細馬宏通*3の調査にうながされるようにフライシャー兄弟の「OUT OF THE INKWELL」の跳ね豆の回をYouTubeで見てみよう。するとああ、それはVtuberたちの3Dフルトラ企画になんとよく似ていることだろう。
 「OUT OF THE INKWELL」の画面はアニメーションと実写パートの往還で成っている。男によって描きおこされたインクの身体を持つ道化師ココがなんとも茫漠とした白=灰色の風景で得意げに踊りあかす。と、そこに実写で男が割りこんでくる。男が「ココのいる画面(=アニメーション世界)」の「手前」に現実に座り、ココを観察しているのだと、作家は観客に見せたいようだ。男はメキシカンジャンピングビーンズとかかれた箱をおもむろに取りだす。カメラはこぼれ落ちた豆が机の上で跳ねまわる様子をアップでとらえる。場面はアニメパートに移行する。実写世界の机の上で跳ねていた豆は、いつの間にかココのアニメ世界に転がりこんでくる。一粒、二粒・・・たちまち増殖して眼にやかましく跳ねまわる豆たちにココはかわいそうに追い回され、無慈悲にも切り替わらない画面のフレームで制限づけられた逃走を続けるのだが、これがしばしば「クソ企画」のように小ばかにもされ、愛されもされる、配信者たちの3D企画をどうして思い浮かべずにいられるだろう。ココが跳ね豆を必死でよけるとき、Vtuberたちはボールや鉛筆のオブジェを多少呆れつつよけようとしているのだったが。

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はかちぇたちは後ろを見ずにジャンプする・・・・*4
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画面外というイリュージョンは・・・*5

良い子そう

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ジェームズ・スチュアート・ブラックトンによる「愉快な百面相」、1906年*6

 だから世界初の短編アニメーション映画とされる「愉快な百面相」を見ても「これ、配信じゃん」と笑いだす私がいる。この作品は黒板にチョークで絵をつくり、消し、付け足し、描き直す作業で成っているが、これはどうも、最初期のお絵描き配信でもあるようだ(あるようだ、というか、映画なのだが)。先述の細馬の『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』が、この作品の「黒板にチョーク」という取り合わせの由来を教えてくれる。それは19世紀後半、トーマス・ナストやミスター・ベンゴフによるパフォーマンス──「講演したり歌いながら黒板にチョークで絵を素早くスケッチしてみせる」芸を背景としているのだという。当時「チョークトーク」とも言われ、「稲妻スケッチ」とも言われたこの技芸を、ブラックトンは「愉快な百面相」でカメラの前にまんまと引き入れた訳だ。

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田中!!!!*7

 あなたもきっと愛するお絵描き配信の一場面を夢のように持っているだろうが、私が大事にしているのはつっくがオリキャラの田中を描いていた配信の一コマだ。八重歯のある口元を描いた瞬間の、「あ。可愛い、利発そう・・・あ!賢そうですわねなんか。賢そうですか? ちょっとばかそうですか?笑 でもなんだろうー、あれですわね・・・・良い子そう」という流れはこうして抜きだしてしまうくらいすきでいる。「良い子そう」が最後にでてくる流れにぎゅーってなってしまう。私がたは、自分で描いた絵を、描きながら自分で気に入りだすようなひとの声をもっと愛したいと思う。描きながら、自分が描いた子のデザインに抱いた気持ちをそのまま言ってしまううかつさがどうしてもすきだ(それをうかつだと言わなければならないのだとして)。「愉快な百面相」にそのような描き手の声は幸か不幸か収められてはいない。名声の影、ブラックトンも自分の絵になにか言いかけたりもしただろうか。

*1:「OUT OF THE INKWELL: Jumping Beans (1922) (Remastered) (HD 1080p) | Dave Fleischer」、8thManDVD.com™ Cartoon Channel、2014年

*2:宮本裕子フライシャー兄弟の「インク壺」シリーズ――実写とマンガ絵アニメーションを重ね合う技術と虚構性」、メディア芸術カレントコンテンツ、2021年(https://mediag.bunka.go.jp/article/article-18108/

*3:細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか――アニメーションの表現史』、新潮社、2013年

*4:この企画のなかで鉛筆の3Dモデルはしばしば配信者の後ろから転がってくる。だが配信者は振り返ることなく鉛筆が自分の足元に来るタイミングを視認できている。これはきっと企画の収録場所において、配信者たちの前方に自分たちの配信画面を映したモニターが設置されており、それをリアルタイムで観察しているから可能になるウルトラCなのだろう。「【#はかちぇ3D】実験大好き系女子高生、3Dになる【にじさんじ/葉加瀬冬雪】」、葉加瀬 冬雪 / Hakase Fuyuki、2020年(https://www.youtube.com/watch?v=NYcHLF1mUag

*5:フライシャー兄弟の「OUT OF THE INKWELL」は豆という物体を恃みにして実写とアニメにひとつの通路をつくりだそうとした。しかし、実写世界の豆がアニメーション世界に入っていく瞬間をそのまま提示することはできない。それゆえ、画面の切り替えによって豆の存在的な移行を観客に信じられるものにしたことになるだろう。このとき道化師ココにとっての画面外、(もしくは観客が認識するところの・・・)画面外というイリュージョンも、空虚な言い訳以上の存在感を持って立ち上がってくるようだ。こうして豆とはココの画面外から来たいわば「物体X」であった。それに対しVtuberたちにとって鉛筆やボールはある意味でVR空間に突然「発生」するものだろう。フライシャー兄弟のようにアニメの「外」に鉛筆やボールがあり、それが自分たちのいる空間に入ってくる、という行き方ではない(オブジェを操作している者という意味では、もちろんべつにスタッフは「画面外」にいるのだとしても)。さらに収録中のVtuberたちは配信中の画面と、配信者としての自分の「オフの視野」の、少なくともふたつの視覚体制で企画に臨んでもいる。配信者たちにとっての画面外と、視聴者にとっての画面外とは、このようにして思ったより複雑な経路の上に結ばれている。「【第3回 すごいクイズ (大きめの門)】挑戦者:花京院ちえり・ヤマト イオリ」、どっとライブ、2021年(https://www.youtube.com/watch?v=aERby6cupnM

*6:「Humorous phases of funny faces」、Library of Congress、2009年(https://www.youtube.com/watch?v=wGh6maN4l2I

*7:「【キャラデザ】筋トレはいつでもあなたを待っています【田中】」、春日部つくし、2020年(https://www.youtube.com/watch?v=xRkqipxm1co