病者の配信(学)

「やあ。トンネルで寝たって?」
「寝冷えしちゃった」といって鼻をすすりあげた21号に、
私は鼻かみ紙をケースから一枚引き抜いて渡す。
「もう鼻かみたくないよ! ひりひりして痛い」
21号はうらめしそうにいった。

雪舟えま・カシワイ『ナニュークたちの星座』、アリス館、2018年、p.17


 一連の「がんばれ批判」とでも言うようなディスクールの骨子を今更検討することはしないとしても、「がんばれとは言わないよ、だって君はもう十分がんばってるから」というようなフレーズに時代はその最も優れた表現のひとつを託したことになっている(アニメ「.hack」のやりとりを回想して金剛いろはが以前述べたことだ)。ところが、「がんばれ」という発語を人間の単なる鳴き声の一種(それは愛すべき鳴き声かも知れないにせよ)、思わず口からでてしまう不可避の擬音同然と理解している者にはどうであろう。自分に向けられる「がんばれ」という声を最初からそのような鳴き声と理解してうっちゃっておける者には、繊細に見積もられる心理的負担の類などは考慮する必要をはなから失う。要するに:がんばれ批判が実効的であるのは「がんばれ」をまともに受けとめてしまう者たちの間だけであるのではないだろうか。さらに:要するに:「がんばれ」という言葉が痛くもかゆくもない者(それを恐ろしい存在であるかのように見るのは勝手だが・・・)には、初めからがんばれもがんばれ批判もどちらも実効的でないということになる。しかも、せいぜいが人間の鳴き声のようなもの、と理解しているからこそ軽くシャワーのように言葉を受け流せる爽快な人間が成立することもある。鳴き声だから蔑しているのではない。反対に、しょせん鳴き声だと知っているから愛着できるというありかた・・・。だが、こうした理解、こうした存在を苦々しく感じる層(「お前みたいなのがいるから」)があることも判っている。
 Vtuberの配信風景に、ここで無理やり話を接続してみよう。「無理しないで」という言葉は体調不良の相手の身を案じて言うに決まっているのだとしても、この言葉についても、上に述べてみたような詮議の流れはゆるされるだろうかと。


 実際私がたはいったいなにを案じているのか、知れない。病み上がりの配信者が配信をスタートさせる。たちまちほうぼうから「無理しないで」「まだ休んでたほうがいいんじゃ・・・」というコメントが打ちこまれる。するとべつの誰かがこう言うであろう、「自分の体調は自分でよく知ってるんだろうから、いいから休めって視聴者の声は、それでも配信したいって言ってるイオリンの顔に泥を塗ることにしかならねえんだ」

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 私自身、これは持続的に自分に問いかけてもきたことだが、体調が悪い・まだ病が治りきっていないのが明らかな配信者が、それでも配信したいから、話したいから、と主体的に振る舞う際にどういう態度で臨めばいいだろうか。それは各々の病の程度によるほかないではないかと言われるのだとしても、その病の程度にしてからが、配信者から微細に明かすことはほぼない話だ。もちろん先ほど例示したような「自分の体調は自分でよく知ってるんだろうから・・・」などというのは、「病者=自分」の身体が「医師=自分」にとっていつでも検討可能なほどに透明なものだという前近代的な妄信を含んでいるが、そうは言っても、経験的には「ある程度の」範囲、「ある程度の」日々の行動のうちでは、それは、そうな訳でもある。いつでも問題はこの「ある程度」という幅と質の曖昧な厚みにかかっている、とさえ言える。
 木下龍也の『天才による凡人のための短歌教室』は短歌の本ではあるが今言ってきた内容に補助線を与えるため、ここに引いておこう。短歌をつくるために必要な環境として木下は、「心身ともに普通の状態」を挙げる。だが木下自身苦労してかき悩んでいるように、その「普通」とは、しばしば他人の健康観から鑑定すれば著しくずれるものでもある。

生まれてからこれまでに育ててきた価値観が違うから、僕にはあなたの普通がわからない。それに、いまあなたにとって普通でないことが、普通になることもある。凪を待とう。頭が痛いことが普通の方もいるだろう。大きな病気にかかっていることが普通の方もいるだろう。あるいは心が、怒りや悲しみにとらわれているのが普通の方もいるだろう。他者から見て、幸福の絶頂や不幸のどん底と思えるような状況が、当人にとっては普通である場合もある。だから、普通であればそれでよい。心身ともに普通の状態で短歌をつくろう。それからでも遅くはない。
/木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』、ナナロク社、2020年、p.93

 「配信を行うために必要十分な最低限の健康な心身」など誰に定義できるものでもないだろう。こう口にするのは、恐ろしいことだろうか。健康論、生命倫理論に踏みこむことはしないけれど(でももうそういう話になってる?)、まだどこか悪いところはないか、ほんとうはここも健康になるべきではないか、というしかたで、客観的に見ても完全に健康な状態というフィクションを勧告してくるのが今という「時代」でもあれば、現在的に「優勢」な健康=体制でもある。その体制を内面化してしまえば「無理しないで」という声はきっと永遠に尽きるところを知らない。


 配信者に咳を繰り返されると熱心なファンでなくとも不安になり心配するであろう。「私だってそうさ」。しかしそこで思わず「いいから休んで」と言いたくなるとき、ほんとうは苦しんでいる者を自分の視界に入れたくないというエゴ(あえてこの用語を取ろう)、病者・半病者に愉しみの気分を害されたくないから言っているのでないかを自分に問う必要があると思っている。それは逆に言えば、あるいは少々強く誇張して言えば・・・・「咳をしている者には話してほしくない」、「病んでいる姿なんてこっちは見たくない」ということにも繋がるだろうからである。ここはひとに応じて・・・ケースに即して本来は個別に言わねばならないことだが、ともかく自分のなかに根づく忌避感覚に注意するならば、単純なモラルをこうと決めて対応することはむつかしくなる筈だ。