「Inscryption」にニ、三私が思ったこと

 チャイちゃんたちのInscryption配信はたのしみに観に行こうと思ってます。あとあとでは、言えなくなることだからね。


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本編のリリースから6年弱もの歳月が流れ、Undertaleで検索すれば即トゥルーエンド(俺は絶対にこう呼ぶ)のネタバレが飛び込んでくる時代に「自分でやれ」「自分でやれ」「自分でやれ」…… かつてToby Foxのかけた魔法がいかに強力だったかがわかる。良くも悪くも。
https://twitter.com/umimoto_hiroki/status/1413913354972790786

 ある作品が革新的だとかりそもにも言うことは以後、その作品のせいで、なんらかのかたちで「回帰不能の場所」が歴史の上に決定的に誕生してしまうということの筈だ。「Inscryption」(Daniel Mullins Games、2021)はその意味での「回帰不能の場所」をなにかつくりだしただろうか、と私は疑問だ。というのも、このゲームはまさに革新性の名において評価されているように見えるから。私はこのゲームの登場で揺らぐようなものはなにもないと感じた。ただたのしいんだからそれでいいじゃないか・・・・という本心をあの手この手で隠蔽しようとして誰の言葉も焦って見える。すごく手がかかっててアイデア豊富でたのしいだけのアトラクションということでこれはいいんじゃねえかな、と私なんかは思ってしまうのだが、いやそれだけじゃなく・・!と言いたいひとにはべつのものが見えているのかも知れない。革まらなかったのは私。このゲームを通過したあとで世界が一変するような経験に私はさずからなかった、と言い直せば多少譲歩表現になるだろうか。プレイしながら執った多くのメモのなかからひとつ拾いあげると、こうかいてある。「とはいえ作中のアイデアがあまりに豊富すぎるし贅を尽くしすぎているため、道具立ての『貧しさ』とか演算と数字の『非情性』からビデオゲームのむき出しの『真実』(?)に近づきたいような向きにはこんなん優秀なサービスゲーじゃねえか、という風にも映るだろう」
 かつて鮎川信夫が「疑似現実」にShadow existenceとルビを振ってみせたことを思いだす(『疑似現実の神話はがし』)。「疑似現実」という日本語はバーチャル・リアリティーではなくシャドウ・エグジスタンス──影なる実存、と言いすえておくのだという訳だ。そうして「シャドウ・エグジスタンスの方ばかり問題にされて、サブスタンスの方は置去りにされていないだろうか」とボードリヤール=80年代の時代性を直接負って、今となっては気恥ずかしいものを誘うのだろう問題意識をぶっちゃけてもいた。だが、サブスタンスに着目した結果、今度はそれこそ「バラエティ」になってしまうとしたらどうであろう(「Inscryption」の開発者と配信者の間でまさに「サブスタンスに」マジに行われた、バンクーバーでのフロッピー発掘作業についての報告など、バラエティ以上のなにでもなく私の眼には映った。もちろんたのしければそれでいいのだ(・・・))。
 またひとつのメモ。ゲームデザインメカニクス面については感嘆、シナリオや根本的な動機はもうそろそろこういうのやめません???(飽きない・・?)ていう感じでした」。自分の口調までなんだか歯に物の詰まったいやみになる前に、ほんとうはこれだけ置いて去っておけばよかったのかも知れない。


 実際私は期待もしている。「Inscryption」をプレイして、ある層のひとたちが、やっぱりこんなのぜんぜんだめだ、こんなしかたじゃとても納得いかない、と次のゲームをそれぞれ考えだしていつかつくってくれることをだ。つまり、ゲームキャラクターの切ないヒューマンドラマ化・ロマンス化に到底満足できないひとたちに賭けたい。自分を棚に置いてのことだが・・・・。
 メモを開いてみる。
 「昨今のメタフィクションを自認するインディーゲームの兆候だろうか、キャラクターが『ゲームのなかにいる』ことが、なぜか『ゲームを再生するハードのなかにいる』ことに包摂されてしまっている それでゲーム世界=ハード=『箱』=牢獄、壁・・という表象連鎖がたやすく召喚されてもくる
 もちろん『~のなかにいる』の『なかに』にしてからが問題含みの表現ではある。『なかに』が言語運用上『悪さ』をしているせいだとも言えるが、ひとまずそんな言い方に付き合ってみるにせよ、『ゲームのなかにいる』ことと『ハードのなかにいる」ことはべつの出来事の筈である。
 『ゲームのなかにいる』ことを『ハードのなかにいる』ことになんの疑問もなく順接させ続けているかぎり、キャラクターの生存系に対して『閉じこめられている』という環境観測の域をでられないのも、当然ではないだろうか」

 私の言いたいことが伝わるだろうか。私は、もしほんとうにゲームキャラクターがプレイヤーを観測するような視点を持つことが明らかにでもなったら、今も昔も流布しているような「こっちのことを認識してるキャラクター像」についての知見など一切そこで破産するだろう、と言っている。メタフィクションとやらの「装置」によってゲームの「売り上げ」に下心をのぞかせるビデオゲームのほとんど多くにおいては、すべてが徹底的に人間側の視線でかたどられ、人間化されたキャラクターの言動・表象しか試着していないと思う。さすがに言い過ぎているのかも知れない。しかし再度強調するなら、多くのビデオゲームが謳うメタな仕掛けなどというものは、たかだか人間が、「ゲームのなかで自分が生きていたらどう感じるか」という仮定から演算された情動や行動原則をキャラクターにすべて帰属させているのにすぎない(その洗練性や肌感覚、言葉選び、ビジュアルの配慮・・・といった技術面・文筆面での評価はそれとしてあるにせよ)。
 だがこう言って得意げに取り押さえようとしている自分の顔も見るにたえない。それはそうだ、私の顔はこのとき「コウモリであるとはどのようなことか」(トマス・ネーゲル)と大書してある。それもまたおそらく、退屈きわまりない顔だろう。



 ようやく私はここで「Inscryption」の美点を具体的に挙げることがゆるされる。事は、ゲームがいくらか進展し、見下ろし視点の古典的なJRPG風の画面に遷移するチャプターに求められる。この箇所で、この作品が派手な仕掛けではないしかたでひそかにプレイヤーとともに培ってきた感性学が、明らかになったように思うからだ。この作品は一種の翻訳関係を問題にしていると思う。チャプターを越えて見た目やルールを変化させながら維持される「カードゲーム」が見やすいものだが、それだけではなく操作における翻訳関係がある。

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 ここで重要なのはポインターの存在だろう。プレイヤーキャラクターの移動はキーボードのWASDで済む。だがオブジェクトやNPCの近くに寄っても「決定キー」は通じないのだから。会話し、調べるためには、近づいた対象の上に飛びだすアイコンにポインターを合わせて、マウスでクリックする必要がある。「先取りして言えば、これは一般的なFPSを簡素化した操作経験なのである」とメモは言っている。それが、一見JRPG風の画面に上書きされているらしい。仕組みの異なるチャプターをしかし、操作は通底している。キーボードとマウスに両手をそれぞれ置かせるというパソコンゲームの要請。それはまた、GMと対面でカードゲームを遊んでいるチャプターで、部屋をFPS風に探索する際に使われた操作定義の言い換えでもある。キーボードとマウスという機器類に対するプレイヤーの手の心情的譲渡、および次々にジャンルとして入れ替わるゲーム画面を利用することでプレイヤーの手に開通する「操作=翻訳」の精神が、どんな演出よりも雄弁にこのビデオゲーム自身の言葉を語っていると思えないだろうか。