瑪瑙のニャウシカ、詩のキャラクター

 言いさしたまま私も午前に入った。抒情詩が・・・・書法が・・・・という険しい顔のイヅル処から天気が何巡するくらいおろおろ退却してきた。サーモグラがないわいな。べつに一息ついてる訳でもないけど、まあ「そんな処で」、なんとなくこのひとはポケモンにも好意的なんじゃないかなあ・・・?なんて、あんまりな(???)詩の風景に入り浸っていた。詩を読みながらポケモンを思いだす私は笑われるだろうか。この詩人てポケモンやるのかな、とかふつうに考える訳。だってcharacter、という言葉にはんもんするのは決まって場にだしたあとのことで(決まって場にだしたあとのことで──)。それじゃキャラクターとは、「キャラクターと思わず言ってしまう以外の使い方に備えられていない言葉」だ少なくとも私にとっては。

草の間からよく茂った瑪瑙のニャウシカが雫石を舐めていて、キクリはいろはかるたをシートのうえにばらまいていった。
「さ 逆さのオームのカード 今は苦しくてもやがて報われるだろう」
シロがそのカードを取る。
「へ へんな腐海です 腐海腐海に分解されていく」
「昨日の夜一本足の妖怪が空から落ちてきた」とシロがおかしなことを言う
「そんなわけないだろ」とキクリが足をジタバタしながら言った
傍らで聞き耳をたてていたSiriが「それは夔(き)という中国の妖怪です」と冷静にアナウンスする
「の ノンフィクションの泉鏡花の作品がナウシカでした」

田中さとみ「キミが最初の花だった」、(『ノトーリアス グリン ピース』、思潮社、2020年、p.54)

 唐突に詩にかるた遊びをしている一団。かるたと言い条、札にかかれているらしい文面は引いた者や世界へ占星的(「逆さの」)でもあるような、しかしまたナンセンスでもあるような。場にいる者たちの名前が「風の谷のナウシカ」にレファレンスを持っているのだろうことを詩自身があれれな言いぶりで打ち明けているけれど、そうやって「なにかしてる~、なんか会話してる~」の者たちの姿はレファレンスからぱちんと切れて、むしろもうひとつのポケモン、「ポケモン・裏」みたいな構図で見えてくる。いや? そうではなくて・・ということもないけど・・・もうちょっと言うと、ポケモンがまさにひとびとから愛着を持たれる現代に出っ張ってかかれる詩「として」(・・・)、自由詩がスケッチしようとする独自のキャラクター観がここに張り渡されているようで胸をくすぐる。ただし小説のように詳細なプロフィールや設定などを伝授することからは免れた、新しい「妖精戦」のような会話が胸をくすぐる。つまりすき。
 ここでシロや瑪瑙のニャウシカやキクリやSiriを詩のなかの「登場人物」と言うこともできるのかも知れないが、それは言葉の上で言えるだけだ(スピノザ)、という思いに負けてる。たとえば手塚敦史の忘れがたい行は、それでも、「登場人物」という字面、精神の側にこみあげるものを多く含んでいた気がする。そこに一貫した劇原理のようなものは望まれて・無くとも。

──ノトはペダル式の宙吊り木馬、ナツキは横になった竹馬と孛星(ほうきぼし)の、託宣のようなスピンを 言葉としてさずかっている
…なるべし。…べからず。…あれかし。
帰りがけには掌を握り、中心から逸れたごみ屑が、町にちりぢりに散在し出している

手塚敦史『おやすみの前の、詩篇』(ふらんす堂、2014年、p.24)

 けどそれは結局名前のせいでは?(人間っぽい! 命名! マスコットっぽい! 命名!)と小賢しい声が当然のように寄せてくる。名前のジュブナイル。ああ、そうかもな。強くそれに打ち返せるようなフォームを私は持たない。今はまだ。しかしここで私は、藤原安紀子『どうぶつの修復』(港の人、2019年)の「キュポス」「エキップ、デラソーワ」「マキアライ」「コマンダー」「かいちょう」・・・・「ムウ」たちのことを思いだすことで洗い直している、と言いたい。それらの名前に取りつかれる「いきもの」の生態はやっぱりいくぶんかボタニカルで(街や土地に繁茂し緑の誓いへの偏差や屈折で心情のフォントが上がり下がりもするように見えるがために)、いくぶんかはアーキテクチャー、だ(置かれ力失せ永の年月を在ってきた被造性のプリズムで読み手の体格を問い直すがために)。あのねえ、ポケモンの「タイプ」とはもはやもう「身体つき」の話だと思うんよねえ・・・・という。私は藤原安紀子の詩を(過去詩集も含めて)、まさにこの世界にいられなかったポケモンのようにときどきは読んでいる、と言いたい。この世界にこめられなかったポケモンの顔色を窺うように、と言いたい。詩のcharacter。「間違えてはいけない。それらがキャラクターに見えたとしても言葉の上でのみ誕生できたものであり・・・・言葉のほかに移住しうるものではない。徹頭徹尾言葉のキャラクターなのだ」それがモダニズム以降の詩の言葉の自律性のモラルその一般的な・・・仁丹くさい・・・解という訳なのだとしても、次の行に飛び上がりたいほどの思いがわくのは、ではどういう訳でしょうか。

朝には泣きつかれて水色のゴミ箱のそばに隠れていた銀色のムウ、瘦せ細ったムウ、この街のはじめての夜明けに大失恋をして、紙袋のなかでくいしばって震えていた。こだまする哀歌に背を向け、かすかなじぶんに戦いでいる。銀色のなびいているムウ、騒音のムウ、ひとでないのにひとでなしと名指されて、歪んだシッポを叩くように振っているムウ。
藤原安紀子「森 〈屑〉」(『どうぶつの修復』、港の人、2019年、p.64)

 なるほど、ここではムウの去就やそのまわりの者の去就は十二分に残酷さの針を指しているのかも知れないが、かいている言葉は弾んでいる。私は、藤原がこの箇所を昂揚してかいたのだとほとんど信じているようだ。「大失恋」だぞ。「この街のはじめての夜明けに」な。そしてそれはひとえにムウをめぐってまだ言えることがある、またひとつ言えることがある、という昂揚の連鎖に由来するムウいきものへの執筆に届いてる。

古い柱にある空彫の花をしたから辿ると、子どもの背丈ほどの喪木には絵のような美しい文字が連なっていて、つみあげられたおとぎ話がいっしょに生長している。
(「あみうた 〈泉〉」、『どうぶつの修復』、p.27)

 詩集中で最も感動的なパッセージを抜きだすということは鼻で笑われるかも知れないが、「おとぎ話」が「いっしょに」生長しているとかいてくれてよかったと私は思っている(生長は植物に向かう措辞だ・・・)。どちらも置いていかれないのだということを、「ただ、(わたしといっしょにいると、これから/成長できそうにない…)とかがみの/けしきが言うのは確かだった」(手塚敦史みづゑの木に」、『1981』、ふらんす堂、2016年、p.77)という、もうひとつの動揺の景色とともに、私は自分のなかに共存させるように置いていたりする。