プリセットアンドグラウンド(1)──見るべきほどの背中

 「ポケットモンスター 赤・緑」(https://www.youtube.com/watch?v=V0sHeCUrDfo)が広く印象づけただろう画面づくりの妙として、背中越しのバトルシーンというのがある。ひとまず通念にならい、2DRPGのバトルシーンの見せ方について「フロントビュー(一人称視点)/サイドビュー(三人称視点)」とした大別を踏まえるとき、ポケモンタイプのバトルはその両者の折衷案かと思えたひとも、いただろうか。相手のキャラの顔を正面から見すえてバトルに臨みたい。でも立ち向かっている自キャラの全身像も同じ地平に映っていてほしい……。フロントビューの臨場感もサイドビューの個別画像の臨戦性も一手におさえようとしたのかは判らないまでも、敵・味方の視線が画面上ではからずも「斜め」にかちあうところからポケモンが出発したのはたしかだ*1。それを背中越しと言うにせよ、肩越しと見るにせよ、ひとがふと洩らすように「キャラクターを外から支援するような視点」、戦いを一種外から見守る視点感覚を与える画面づくりに傾いているというのも、そうなのかも知れない。
 こうした努力の一端はビデオゲームの2D時代の制約を背景としてのものでもあったのだろう。やがて3Dモデルの導入が前提となった結果、カメラをすきな角度に固定したままバトルを進めることができるようになった(図1)。あるいは戦闘中の状況に応じてカメラはその労を割くようにしてキャラクターをいろいろの角度から見せてもくれる(図2)。はっきり言ってゲームにあまりふれてこなかった私でも、RPGのバトルシーンにおいて「キャラクターを固定した角度から見つめなくてはならない」という状況はきっと優勢ではなくなってきているくらいの推測はできると思う。

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図1。「NEOVERSE」、Tinogames Inc.、2020年。
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図2。「ペルソナ4 ザ・ゴールデン」、アトラス、PC、2020年。

 ここで私自身しばしば曖昧にしがちな、戦闘にまつわるふたつの様態を区別してみたい。古典的なRPGの戦闘状況を念頭に置いてのことではあるけれども、それを、戦闘「場面」(scene)/戦闘「画面」(screen)と仮に呼び分けてみよう。敵とエンカウントするそのたびに発生するイベントとしての単位を前者の戦闘場面に紐づけておく。これはバトルをいわば出来事のステイタスから確かめるための言葉に違いない。それに対し、同じ戦闘場面中に画面に表示されうる映像一枚一枚を戦闘画面としておこう。すると、ひとつの戦闘場面のなかで無数の戦闘画面がありうるし、現にあるということになる(「戦闘画面」の一枚を指して「戦闘場面」と、私もふわっとした感覚で言ってみたりする)*2。早速ここで問題になりそうなケースを思いつく。当初戦っていた敵が倒れ、べつの敵が乱入してくるのはどうか。会話劇などを挟んで変身後の敵とあらためて戦うときもあるだろう。そういった場合、「戦闘場面」はひとつの連続した単位と受けとるべきなのかどうかは、ゲームによってはっきりと言えなくなる。
 ただ、ここでどうして場面と画面の違いをことさら持ちだしたかったのかははっきりしている。クラシックな2DのRPGの戦闘風景は(この言い方は危険だが)画面固定的であるがゆえに、戦闘場面がそのまま戦闘画面と同義なようでもあったからだ。私にはそうだ。ある時期までのポケモンドラクエ、FFは、過激な言い方をとれば、「ひとつの戦闘場面にひとつの戦闘画面で応える」とでもいうような感触があったと思う*3。それは3Dモデルベースの現在的なRPGが、キャラクターの前へ後ろへ回りこむカメラを実装し、上から下から映すさまが、同じひとつの戦闘場面に対するいくつもの見え方(=無数の戦闘画面)をらくらくと差しだしてくれるようになったから、というせいでもあろうか。


 ひとつの戦闘場面においていろいろの角度からのキャラクターの見えを持たない、固定的な戦闘画面にのみ映る情動の道行きに、背中という例をもう少し増やしてみよう。2016年にリリースされたフリーゲーム「芥花」は珍しくポケモンタイプの画面づくりをしていた(図3)。

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図3。「芥花」、CUNERIA、2016年。

 いわゆるバトロワを意識した作風ではある。プレイヤーはその参加者を強いられた主人公の「芥花」を操作するのでありつつ、バトルでは引用画像のように、相棒の悪魔の「イングリド」の背中こそ敵に対峙するように映っている。イングリドの画像は後ろからの立ち絵と呼べるものであり、問答無用の破格なぶち抜き絵だ。太ももまで大きく幅をとって描写されていることが、その後ろに護られるようにいるであろう芥花の、かえってすぐそば性を伝えているようでもある。だが、なぜ「その後ろに護られるようにいるであろう」と判るのか。判るよ、だって芥花が画面内にいないもん。画面内にいないのに主人公なのなら……そのひとは画面全体を目の当たりにしているってことでしょ? だとするとここで、ビデオゲームの視野の「構築的な」表情にふれていることになる。この戦闘画面は芥花視点の風景だということに説明をつけやすいのがたしかなのだとしても、そもそもフロントビューはそんな風に「誰かからの見え」を構造的に要請してしまうものでもある。実際、芥花から見えていると決めなくてはいけないものはなにもない(舞台モデルにつきあってみた上でさえ、たとえばイングリドの右側に芥花はいるとしたっていいだろう。それはそれでフレーム外なので見えない。これも権利上言えるだけにすぎない、って?)。だが、これを芥花視点ではない、と言った瞬間、今度はそれはプレイヤー自身からの見えにすりかわってしまうだろう。「誰かからの見え」モデルを前提としているかぎり、空所補充の原理が「見ている誰か」を探し当て、代入しにきてしまう。これは結局、悪いこととかいいこととか言えないものかも知れない。

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図4。「Dicey Dungeons」、Terry Cavanagh、2019年。

 「Dicey Dungeons」(図4)の場合は、キャラクター同士が斜めに向い合せる配置もあって、「芥花」よりずっとポケモンタイプの対峙表現になってはいる。とはいえ、メインの画面領域はもっぱらダイスと各種行動のイメージに当てられている。そのなかでキャラクターは隅っこにちょこんといるようなものだ。プレイヤーキャラクターの背中は、ここでは、画面中央を大きく占める賭場卓をプレイヤーに覗き込ませる誘い水のようにもなっていると、そう思われないこともない。キャラクター(我が愛しのRobot!)は、ビデオゲームを開くウィンドウのフレーム、そのちょうど内と外の間に腰かけたあの「ぐらぐら人形」のようでもある。
 ところでこの戦闘場面で終始、無理をしているのは「Stereohead」と「Robot」のどちらだろうか。というのは背景の氷の島に照らしてみたとき、どちらかのキャラクターが無理な体勢をとっているように思うからだ(もちろん無理に見えないのが典型的なイリュージョンなのであるし、「Dicey Dungeons」をプレイしている最中そんなことは考えもしない。こうして文章をするときだけ余計なことを案じるはめになる)。私の感想ではStereoheadのほうが無理をしてそのうれしくも小生意気な顔をこちらに見せてくれているのだと思っている。平面志向の絵柄を採用してるおかげもある。それでも、顔が見たい、顔を見せて、というプレイヤーのどうしようもない欲望にとって、地形や姿勢程度のものはいくらでもねじ曲げられるのに違いない。RPGのバトルシーンというのもきっと「顔が見たい、顔を見せて」というお願いの、懇願の、船着き場でもあった。

*1:フロントビューの臨場感というものを私はいまだに言葉の上でしか解しないのを残念とも思わない……。少なくともフロントビューを前にしたときの独特の肌感覚は、眼の前にありありと、などという方向の「臨場感」とはやはりなにか違うものではないかと思っている。

*2:「画面」であるものにむしろ通時的な場面性を、また逆に「場面」であることにかえって固着的な画面性を、ジグザグに読みつけることがしかし、いけないのではないと思う。そこからしかかきおこせない気持ちの発露。

*3:これが言いすぎているのは、たとえば敵を倒すごとに画面から敵が消えるだろうこと、攻撃のエフェクトが画面にまさに図像的に表れること、なにより戦闘の歴史化=進展を語るパラメーターの増減やテキストメッセージたちをすべて除外していることから明らかだ。とはいえ、肌感覚として言いたいことが伝わるだけ伝わってもらえることを期待してもいる。