肖像画で凧揚げをする・補遺

 絵画にさえ差し向けられる「『その絵は何であるか』ではなくて『その絵は何をするか』という行為遂行的な問いかけ」(岡田温司)や、「像行為」(ホルスト・ブレーデカンプ)という喚起的な考え方を、イメージ学の領野から際立って思いだす。これはビデオゲームの話だろうか。それもビデオゲームの話かも知れない(私はなにを言うか決めていない)。とするとゲームにおける操作という項は、「この絵は操作にどう応えるか」という声をもプレイヤーの手の上へ訝しくも新たに記入しに来るものでもある。どの絵(=キャラクター)が今、操作にかないそうか・かなわなそうかを、たしかにひとはジャンル経験を元に一瞥しただけで把握し、しばしばそれは成功してしまう。さらに画面に見えるどの絵(=キャラクター)が動きそうか動かなそうか、というべつの水準の知覚もあるのにせよ。
 ゲームを開始し、デモムービーが終わったあとで、画面にただひとりのキャラクターだけが所在するのならばプレイヤーはその図像とこそ操作契約をとり結ぶのだということを直観し、誤らないことは多くの場合事実なのだろう。「この絵は動きそうな気がする」と「この絵は動かせそうな気がする」とが最も直接に素早く関係をとり結ぶ画面上の実体こそが、ビデオゲーム史で「プレイヤーキャラクター」と呼ばれて久しい*1。そうなのだとしても、現にキャラクターが操作に応え動いてしまうことには、こう言ってよければつねにひとをはらはらさせるものがある。それはゲームを始める前から、すでに、私自身がそのゲームに対していくらか肩入れしてしまっているためがある。なにか、まるでゲームを始める前からいくらか好意的にならざるをえないのであり、そうでなければゲームをプレイする時間にはいつまで経っても到達しえないかのようだ。私だけのことならそれでもいい。けれど、詳説不可能なあれこれの好き勝手なイメージングを、どんな風に動いたらいいな、などといった当てこみを、ゲームスタート以前に私はキャラクターの図像に向かってとり行ってしまっている。ましてや、想像外のもの、自分が直接操作したとも感じられないもの、つまりオートマティックに画面に描出される華やかなエフェクトや一連の単位化されたスキルの描写を見るたび、「その絵がそう動くとは思わなかった」という気持ちは宿ることをやめない。ビデオゲームの前で絵、図像、キャラクターと出会うということは、そんな一連の「言うに言いたい」予感的な思いと、「動くに動けたい」イメージたちとの慌ただしい足踏みでもあるのに違いない。


 太陽を直視する科学者たちの身体の上には、太陽の光が焼きつけられた。その光は身体をかき乱し、光り輝く色彩がその身体の表面に拡散していった。この時代のもっとも著名な視覚研究者のうち三人は、太陽をくりかえし凝視したすえ、盲目になってしまったり、永久に視力を損ねてしまったりした。それは、カレイドスコープを創作したデイヴィッド・ブルースター、「視覚の残存」を研究したジョゼフ・プラトー、そして近代計量心理学の創始者の一人であるグスタフ・フェヒナーの三人である。
(ジョナサン・クレーリー「近代化する視覚」*2

 こうした科学研究にしばしば随伴していたのは、太陽を直視する体験、あるいは太陽光線によって身体に焼き印を押され、身体[作用]の壊乱のただなかで白熱色の光の洪水を触知させられるという体験だったのである。
(ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』*3


 ジョナサン・クレーリーによって幾度も引き合いにだされる観察者たちのエピソードは、あたかもパースの写真に対する態度を争点にしたロザリンド・クラウスの「指標論」以来のインデックス感覚のひとつの肥大化した終点になっている。具体的な科学者自身の身体によって盲目とは太陽の長々とした痕跡(index)だ、と。そもそも「外傷」とはインデックスの最もたる事例のひとつではなかったか、と取材=被害のセミオティクスは告げる。そうなのならプレイヤー個々の手に長く生じてきた操作感覚、あの絵は動かせそうか、動かせなさそうか、どう動きそうか、といった詳細な予期の勘までもやはりひとつの痕跡性なのだろうか。それは被害というよりはポジティブな外傷なのか。このような道行きになにか見るべきものは、あるのだろうか。さらに操作感覚は個別作品ごとにアセット化され、単位化されてもいる。個体化しすぎると操作という出来事総体の流動的な面を一切無視することになるが、だとしても「ドンキーコングのような操作性」「マリオカートのような操作性」といったしかたでひとまず意識のうちに定着を見てしまうということも、簡単には退けられない。こんな風に単位化された操作性がまた、べつのゲーム経験に対して持ち運びされてもいくのだから(それが一般的に「ジャンルごと愛する」ということではあるのだろうにしろ)。
 ゲームの図像が、直接操作する以前からすでになんらかの触覚を手に伝えるものでもある以上、こうした出来事を通りすぎられるとも思わない。ただ、こうした経験にまだ言葉をうまく与えたりすることは私にはできないようだ。そうして足を急ぐ前に、まず顔について一度考えてみたいと思っている。具体的にはゲームには(ゲームにも)「アイコン」というキャラ状態がある訳だ。そこでひとはお気に入りの顔状態をたしかめたり、画面にいつでも顔の陣地があることだけでうれしくなったりする。

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「The Ultimate DOOM」、PC、id Software、2007年。

 FPSジャンルの成り立ちや積み重ねについてとてもなにか言えるような知識を持たない。そうではありつつ「DOOM」(1993年)、「Quake」(1996年)といったジャンル初期の大きな成功例、その後のFPSの文法を築き上げたとされる作品を見てみると、プレイヤーキャラクターの顔が画面に表示されてあったことにあらためて気づく。自分の顔が見れない一人称視点によって定義づけられたFPSジャンルの元祖が、このように操作キャラの顔を当初は必要としたということの意味は、理解できつつもやはり驚かされるものだ*4。上の「DOOM」の引用画像では画面下中央に小さくプレイヤーキャラクター(="Doomguy")の顔を示すアイコンが表示されている。この顔は、戦闘によって血を流し、荒廃していくプレイヤーの「ための」肖像画となっている(……)。この極小のスチル、もはや直接操作対象とすることはできないのにもかかわらず操作感覚とどこかで契約を結んでいるもの、「顔がアイコンであるとき」へ向けて、不承不承ではなしに、放浪に耐えうるだけの言葉を少しづつ見つけていきたい。

*1:とともに「プレイヤーキャラクター」ないし「操作キャラクター」という呼び名をここでやわらげ、「動作主」という呼び名を新たに取り置いておきたい。それは、操作を行うプレイヤーと、キャラクター自身の創造的な動作とが奇しくも重なり合う箇所としての「通じる主格」となる筈だから。

*2:ジョナサン・クレーリー「近代化する視覚」、ハル・フォスター編『視覚論』榑沼範久訳、平凡社ライブラリー平凡社、2007年、p.61

*3:ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』遠藤知巳訳、以文社、2005年、p.208。

*4:「Catacomb 3-D: The Descent」における「手」の描出もあわせて、キャラクターの身体の、視覚化に応じる局所性という問題設定はおそらく可能だろう。みお「FPS歴史探訪 第2回『Catacomb 3-D: The Descent』FPSの祖先の祖先」、note、2020年を参照。https://note.com/mio_fg_knz/n/n1f44d4b078a7?magazine_key=m709eeb13ef38