肖像画で凧揚げをする──ビデオゲームにおける図像同士の検証なしの即時の同定についての感慨

 こうして、ドイツ人と外国人旅行者の両方に対するパスポートによる管理は緩和されつつあった。それにもかかわらず、遍歴する貧民は相変わらず特別な規制を受けた。締約国の領土を合法的に旅行するには、移動する必要がある職種の者、すなわち「音楽家、手回しオルガン奏者、手品師、綱渡り師、人形使い、野生のまたは訓練された動物と旅行する者、ナイフ砥師など」は、依然として居住する国の適切な役人から旅行の許可を取る必要があった。/ジョン・トーピー『パスポートの発明』*1

 一頭で、
 ぐしゃぐしゃな久遠の顔。
/暁方ミセイ「雨宿」*2


 眼が悪いから見間違えるのではなく、その逆、なにかを見間違えることができる可能性がそのまま視覚の条件に「人間的に」棹差している。でも木星とトッポをまさか見間違えることがあるだろうか。そんな特殊な例に対して、あしらうように答えるなら「そうはないことだ」。木星の実物とトッポの実物を、「木星の写真」と「トッポの写真」に水準をずらしてみる。そのときに少し可能性が上がる。さらに木星とトッポを図像化する、デスクトップに小さなアイコンにしておけばもう一歩可能性は上がるかも知れない。絵にすることで歪曲を告げ、縮小処理することで比較材料を潰していくことで。ここまでで可能性と言ってきたのはもちろん、見間違えるための、を指している。それは各々のメディア上で木星とトッポがあい近寄っていくことと──すなわち似て見えるということと──、だが同じ謂いなのだろうか。似ている度合いと見間違える可能性の倍率はそうはっきりと足並み揃えているだろうか。反対に、まったく図像的には似ていると思われないものを断固、取り違えることも視覚にはゆるされている。


 言葉を選びあぐねてこんなにかくのに時間がかかってしまう。だから、読み手のあなたにも多く委ねることにする。ビデオゲーム、特にADV、RPGといったジャンルを通じて、キャラクターの表象法、そのヴィジュアルの表現に大きくふたつのありかたを確認させられてきたと思う。それは一時代のみに通用した、けして特殊な例というのでもなく、現代のビデオゲームにとっても相変わらず啓発的で挑発的な姿を差しだしているようだ。「グランブルーファンタジー」の戦闘画面を見てみよう(図1)。そこにはバトルモーションを画面上で担当している比較的小さなキャラクター図像がある。そして画面下には横並びで比較的詳細に表情を描きこまれたパーティーメンバーたちの顔グラフィックがある。問題はここ、上のひとたちと、下のひとたちが、図像表現をこえて、同じひとりのキャラクターだとこちらに有無を言わせず伝わってしまうことにかかっている。

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図1、「グランブルーファンタジー*3

 まず、ちびキャラ、ミニキャラクター、歩行用キャラチップ、デフォルメバージョンのキャラ(これは使いたくなかった!)……どう呼んでもいい筈で、しかしどう呼んでもしっくりしないキャラ状態が一方にある*4。このキャラ状態は、多くの場合フィールドマップを背景とし、プレイヤーの操作を直接反映する者にせよNPCであるにせよ、ビデオゲームの画面を動き回る直接的な動作主たちになっている。他方、それらのキャラ状態に対し、しばしばよりそのキャラクターの姿の細部を反映するもの、具体的に描きこまれたイラストレーションでなっているもの、それ自体は動き回らないで一枚の絵として画面へ貼り送られたごときものがある。この側のキャラ状況は顔グラや立ち絵という用語で指示される。具体的なアクションをなんらかのしかたで行動表現のうちに担うという意味で前者のキャラ状況をエージェント(Agent)、図像として描きとどめられている様と「未だ」という含みを封入させて後者をスチル(Still)と仮に呼んでみたい*5。どちらのモードにおいてもその描出対象は顔だけ、首から上、胸像図、全身図、そのほか(シルエットや怪物、アブストラクトな自然、建造物)、と作品によって自由であるし、描写方法もピクセルアート、CG、アスキーアート、彫刻や粘土での造型、アナログ絵のデジタル取り込みなど同じく多岐に渡る。
 でも、ここまで一息にかいてきて早速上に引いた「グランブルーファンタジー」が反例として浮かんでくる。グラブルでは方向キーを使ってフィールドを歩き回る煩瑣はない。つまり、フィールドを歩き回るためにプレイヤーが操作するための歩行用キャラチップのような媒体はない。さらにプレイヤーの操作するしないにかぎらず、なにかフィールドマップがあってそこをキャラクターたちが自由に歩き回るということにもなってはいない(と思う)*6。私がエージェントということで念頭に置いていたのは古典的なRPGのドット絵で組織されフィールドマップを歩ける小さなひとびとの姿であったから、そこからするとたしかに話はうまくいきそうもない。エージェントという考え方は有名無実で不必要、さもなくば極端にぼやけた印象にすぎないとも思われてくる。あるいはこうしたことだろうか。エージェント性は所詮、程度の問題なのだと。先に引用した戦闘画面で言えば、画面上部に縦並びしてあるキャラクターグラフィックは、画面下部に横並びしてある顔グラフィックに対して、「相対的に」アクションが充実した空間にあるとは言える(バトルモーション、武器の構え、まばたき、身振り、エフェクト効果)。そのとき、画面で動き続けているミニキャラは「比較的」強くエージェント的に感じられる。また、もしも操作が実装されたとして、プレイヤーが方向キーを押せばそのままキャラクターもフィールドを歩き回るだろう……というような反実仮想によりよく「応えてくれそう」なのも顔グラではなくミニキャラのほうではある。どちらが「比較的」プレイヤーの操作、具体的な動きに対して開かれているかという思いこみ、直観、習慣による把握も関係するかも知れない、云々。
 こう言ってみても、しかし、次々に抜け道が見つかるだけかも知れない。それもあってエージェント/スチルという組を強固に概念構築するなどということは私はしたくないし、できないと思うことになった。このなったは現在形だ。今、こうしてかくことによってそう「なった」。そして次のように考える。プレイヤーからの操作へ対応してくれるかどうかとか、動く動かないということが問題なのではなかったきっと。ただ単に、頭身が小さく画面におけるからだの総量が少ないグラフィックと、それより大きく高いグラフィックとがどうやらひとつの場に居合わせてしまうこと自体がまず:そして:最後まで:重大なのではないか。つづめる。否が応でも画面上で実現をとってしまう、ふたつの様式間の問題なのではなかったか。同じく。ひとりのキャラクターがふたつの絵を必要としてきたこと自体が重かったのではなかったか。

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図2、「Return of the Obra Dinn」*7。ときにひとはキャラクターの顔を見間違え………


 苦労してようよう手打ちしたピクセルアートがディスプレイに鈍くまたたいてある。他方、キャラクターたちを自由に描いた手元のラフスケッチがデスクの上に開かれてある。両者を見比べる時間のなかで、ゲーム開発者の頭にふとよぎるかも知れない「ゲームでは《こんな絵》だが、キャラクターたちは本当は《こんな姿》なんだ」という信念がどの程度共有されていたものなのか、知らない。そんな考えが実在したことがあったのかさえ簡単には知りえないことではある。これほど単純化した仮定では疑念がわくのも当然だ。だとしても、たとえばアーケードで稼働した「Super Breakout」(Atari, Inc.、1978年)が、そのゲーム内容からはとても想像できない「イメージ」をポスターや宣伝絵としてまきちらしていたことがある。そこには重々しい顔でテニスラケットを振る人物がおり、宇宙飛行士がおり、壁をハンマーで打ち壊す囚人さえが描かれていた。それらは「Super Breakout」というビデオゲームの世界観を拡張(あるいは内包)したものとしてイメージされていた筈だった*8。「スペースインベーダー」を開発した西角友宏はインタビューで「(インベーダーの)目を光らせたかった」とこぼしている*9。今の眼からはなんとも素朴な世界として受けとらざるをえない「スペースインベーダー」にさえ、ありありと飛来し襲ってくる宇宙人へと肉薄する想像力を保っていたひとびとにはあらためて驚かされる。いや、「ドルアーガの塔」のパンフレットマンガ、「ドラゴンスピリット」のコミカライズ、「ゼビウス」の設定資料に窺えるような広くゲーム作品の周辺を装飾してきた濃密で華やかなイラストレーションを思えば、それを直接ゲーム画面に再現できないという制約をかえって想像力のスプリングボードのようにし、その乖離を利用してきたという側面も疑えないのだろう。以下に見るのは1989年にコナミからFC用ソフトとして販売され、後々まで移植を続けた「悪魔城伝説」のゲーム画面及び、ゲーム作品の周辺に残されてきた「イメージ」だ(図3、4)。

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図3、「悪魔城伝説*10
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図4*11

 図3の左側はゲームソフトのパッケージイラスト、右側は開発スタッフの設定資料からのもの。そして図4がゲーム中の画面。カンフー映画の熱気を帯びでもしたような大柄で筋肉質な男と、「聖闘士星矢」の華奢をどこか思わせる資料集中のファンタジックなデッサンとが、おそらく同じひとりのキャラクター(……)の姿に差し向けられている。さらにゲーム上でも「スチル」的に描出された肉厚な像の姿(図4、左)と、本編でプレイヤーが実際に操作するキャラクターグラフィック(図4、右)とで印象は違うだろう。これらのイメージたちがラルフというひとりのキャラクターの外見をめぐって描写されていることは疑いえない一方、こうして並べたとき、それぞれの描出スタイルの落差には打たれるものがある。いまだに正確な顔も姿も明瞭でなかった段階でのスケッチ、ムードを盛り上げるための多分に誇張されたイラスト、ゲーム上のキャラクターグラフィックとを同じ水準で見るのはおかしいと言われるかも知れない。たしかに。とはいえ、ひとりのキャラクターがどのような水準であれ、いわば無数の「絵柄」を渡り歩くことになぜかあっさりと成功してしまうということも同じくらいたしからしいのではないだろうか。
 こうしてゲーム画面と、広告やポスター、マンガといった周辺メディアで練り上げられるイメージとがとり結ぶ関係を切り詰めて想起しようとしてきた。「ゲームでは《こんな絵》だが、キャラクターたちは本当は《こんな姿》なんだ」という誰かの内心を、やはりどこかで感じるようだ。だが、その前の項(《こんな絵》)と後の項(《こんな姿》)とをパラゴーネすることで私はどちらかに軍配を上げようとは思わない。その代わりに、問いをべつの場所にずらしてみたい。「キャラチップでは《こんな姿》だが、立ち絵では《こんな顔》なんだ」という風に、すなわちゲーム画面上でのイメージとゲーム外で構想されたイメージの関係から、どちらも同じひとつのゲーム画面上に表示されたふたつのイメージの関係に向けて。ひとりのキャラクターのための、ふたつの画像について。

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図5、「クロノ・トリガー*12
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図6、「Helltaker」*13
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図7、「Stardew Valley」*14

 「クロノ・トリガー」の主人公クロノに出会う(図5)。適度に高めの背丈ととんがった房をつけた茶色い髪をよく表したキャラチップとしてのクロノがおり、一方でメニューウィンドウを覗くと鳥山明のコンセプトアートの筆触を見事に「移植」した顔グラフィックのクロノが覗き返してくるだろう。でも、ひとはこのとき、片方をしげしげと観察して他方の図像と一対一対応させることで、ああこれが同じこのひとなんだな、と最後にチェックシートを洩れなく潰すように了承し、そのあと初めてゲームのキャラクターの図像たちを受け入れるものだろうか?
 ドット絵のミニキャラも、顔グラフィックも、かりそめの影像とする道行きがある。ほんとうの姿はそこにないという。無数の図像の彼方にプレイヤーにはけして見えないただひとつの面影を求めるしかたは、キャラクターXとその各図像表現a, b, c……に対して類似関係で応えさせようとする。そのときドット絵のミニキャラと顔グラフィックの乖離はあまり問題にならなくなることもある。図像aとキャラクターXがあるしかたで似ており、図像bがキャラクターXとべつのしかたで似ているときでも、図像aと図像b同士が似ているとは必ずしも言えないからだ*15。そうであればこそ、複数の、べつべつの「絵柄」に少しづつ似ていて、でもやっぱり違うという「彼方のひとり」を想像する余地も残されるのには違いない。さらには二次創作やコミカライズ、スピンオフ作品が可能となるのもこうした受け入れ方にどこかでふれてのことでもあるだろう。
 それでも、キャラクターXという「仲介」や「彼方」を必要としない端的な感動は、いつもいつも、エージェント状態のキャラ図像とスチル状態のキャラ図像を、私がたがさほど思案せずいっぺんに受け入れてしまえることなのもまた事実ではなかっただろうか。キャラチップと顔グラフィック、ミニキャラと濃い人相図、絵柄の違う二枚の姿を見比べて同定できるかどうか考えるなどということは、そこではほとんど問題にならない。そうではなくて、ビデオゲームにおいてキャラクターの複数にまたがるイメージは「これはこの子。どっちも同じひと」という有無を言わさぬ紹介の電気だけで成り立っている、そのくらいに思えるほど唐突で速やかなものだろう。しかもこのとき、「どっちも同じひと」ということで隠された第三項をイメージの合流地点として持つことさえない。二枚の、あるいは複数の絵があり、それらの間に関係をつけるのはプレイヤーだ。納得しようができまいが、「このひとは……このひとでもある。そのひとは……そのひとでもある」という、キャラチップと顔グラフィックとの間に走る視線の無限の往還運動にきっと終わりはない。


 マネの「笛を吹く少年」はあたかもトランプのカードのようだと三浦篤がそう言えば、言っている*16。なにもポストカードやポスターのような商業展開から連想してのことではないだろう。衣服は凹凸効果に乏しく、背景は曖昧な空間となっている(ベラスケス「道化師パブロ・デ・バリャドリード」に触発されたものだという)。曇った抽象性のなかで人物だけがリアルに前面に目立つしかたが、三浦篤にトランプのカードの図像学を想起させている。だがこれをビデオゲームのキャラクターの立ち絵や顔グラフィックの──つまり「スチル」の──先行例と見るならばどうだろうか。

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図8、エドゥアール・マネ「笛を吹く少年」*17

 実際、「ファイナルファンタジーVI」のメニュー画面が今思い浮かんだところだ。天野喜孝の絵柄を苦心して模倣し打ちこんだピクセル画による濃厚な顔が並び、そしてあの階層化されたブルースクリーンという「背景」。The Color of Madnessと言うならあれがそうだった。波打ったあの青は、実質的にスチルという存在様式にまつわる最重要機密を明かしかけている。たしかに透過処理によって、より「スムーズ」にゲーム画面に落としこまれた立ち絵や顔グラフィックも画面表現上、大きなシェアを占めてはいる。けれど、矩形のフレームに顔を囲まれ、なにか、奇妙な周囲のオーラその手触りごと引き連れるようにでもして現れるキャラクターも後を絶たない。キャラクターの顔が、その背後空間をなんとしても固守し、引き連れてこずにはいない、痛切さ、または甘くるしさ。

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図9、「スターダンス」*18

 益体もないメモどりをこうしてまだ続けさす。スチル的なイメージの存在様態に話を絞ろう。それにしても先に挙げた「ファイナルファンタジーVI」のようなメニュー画面で見られる顔グラフィックとは不可思議なものだ。まず言って、多くのプレイヤーは、顔グラフィックの表示される位置でそのままそのキャラクター本人が活動しているとは思わないだろう。すると顔グラフィックというポジションどりは、本人不在の場ということにはなる。もっとも顔グラフィックを含めたスチルの取り扱い方、その表現形式はゲームによってとても一様ではないし、なにか一括した整頓めいたことだって私にはできないだろう。エージェント的な図像のようにダイレクトに駆動するメカニズムを持たないながら、スチル的な図像はあるときは切り抜かれ、あるときは表示場所を移し、あれこれシステムのうちで泳ぎ回る。顔グラフィックはしばしばゲーム内で便利なアイコンとしても使用される。たとえば「パズル&ドラゴンズ」ではキャラクターのスチルの一部分(ここでは顔)を切り抜いて、戦闘中やパーティーメンバー編集時のアイコンとしている(図10)。

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図10、「パズル&ドラゴンズ*19

 では顔グラフィックとは多かれ少なかれ、キャラクター自身と隔たりを持ったイメージなのか(一度遠ざけた問題がこうして回帰してくる)。そう、あれはいったい「肖像画」なのか「スナップショット」なのか、という唐突な対立軸まで浮かぶ。「ファイナルファンタジーVI」のメニュー画面に戻ろう。あれは私にとって最初の「肖像画のある部屋」だ。とにかく天野絵の濃密な画風の反映もあってか、あの顔グラフィックの画像体制は私にはほとんど肖像画のモードに見えていた。キャラクターの肖像画。そして多くのビデオゲーム作品の顔グラフィックもそれと関わりがあるような直観がある。美術史的な考慮皆無のまま、無責任に言って、肖像画をここで「そう見えてほしいイメージ」とまとめておけるだろう(キャラクターはスチルでいくらかはやはり、めかしこんで見えるから)。それと対立的なモードとして、写真によるスナップショットを位置づけてみよう。スナップショットは「そう見えてしまったイメージ」だ(この姿がそのままゲームの上ではその子なのだと、思わせるから)。
 だがこうした対立軸も、その画像のある位置でキャラクター本人がまさか活動している訳ではない、という前提で生じている。そしてこの前提があえなく崩れがちなのは、会話シーンにスチルが流用される瞬間なのだろう。肖像画というステイタス、スナップショットというステイタスは、キャラクターがいざ会話空間に入ると自分を保てなくなる。メニューウィンドウで眺めていた絵とまったく同一の絵なのにもかかわらず、私がたは、やはり会話シーンでの顔グラフィックからなにごとかをかき起こしている。これは気分の、そして情動の気まぐれにすぎないのかも知れない*20。それでも、スチルという生は移動するだろう。手足動かして歩き回るのではなく、たとえば持ち手を欠いた凧揚げのように(画像は凧揚げされていると言っているのだ)、地上の=ディスプレイの重力を好き勝手に勘違いさせながら。

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図11、「雪道」「双葉の歌姫」*21

 「雪道」、「ウトナと3人の騎士」、「双葉の歌姫」、「ACDC」、「いばらのうみ」、「Helldiver」といったノンフィールドRPGを通じて受けとってきたものの意味価がこうして明らかになってもいく。既存のジャンル語彙を棄ててあえてノンフィールドと言ってみせたことの意味価が。そこにないのはフィールドばかりなのではなかった。ノンフィールド、よって「必随的」に、フィールドを歩き回るキャラチップもない。顔というイメージと対応するもうひとつのイメージをそれらのゲームは欠いた。スチルに対応するべきエージェントはそこでゲーム画面という視野全体に看取られた、かも判らない。二種類の図像表現はただひとつの絵柄に縮約された。「このひとは……このひとでもある」の往還は、画面を照らすただひとつの顔というランタンとの道行きになっていた。「くもりクエスト」はほとんど一枚の壁紙だ(図12)。行くところまで行くとこうだという。そこでキャラクターは背後に埋めこまれかねない、癒着しかねないまで行っている。これがスチルであれば、なんというスチルだろう。だが確実に彼女は話すことをやめない(終わらぬかぎりは。終わらぬかぎりは?)。

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図12、「くもりクエスト」*22


 一致とは違うしかたで、果ては似るとはべつのしかたで、同じひとになる、とはどういうことだったか。「このひとは……このひとでもある」はいつ可能か(いつでも)、どう可能か(どうだろうか)。下のイラストレーションをもしゲームに落としこんだら、ひとは同じ子だと進んで受け入れるだろうか、「そういうことにしておく」だろうか。……でも、台詞を話したら? 言葉があったら?

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図13、私の描いた絵とそれをピクセルアート処理アプリで再構成した絵。
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図14、それから数年後、上の絵を意識しながら昨日つくったドット絵。

*1:ジョン・トーピー『パスポートの発明』藤川隆男訳、財団法人法政大学出版局、2008年、p.129。

*2:暁方ミセイ「雨宿」、『ブルーサンダー』、思潮社、2014年、p.19。

*3:グランブルーファンタジー」、Cygames、2014年。

*4:この点で「えとたま」(白組&タブリエ・コミュニケーションズ、2015年)が、キャラクターの頭身の違いによるキャラ状態を指すために「プリティモード」と「アダルトモード」と呼び分けていたことは見事に思えた。それは一般的に言われるデフォルメとリアルなどという表現よりは少なくとも私の意にかなう。

*5:このような言葉の呼び分けのまずさ。とりわけスチルが最初から最後まで隔離された孤絶の者のような響きを与え、さらに言語的にも静物(still-life)に直接繋がることを思えば軽蔑は避けられないだろうと思う。ここにおいて読み手に委ねたい気持ちが私のなかでせり上がってくる。どうかもっとよい言葉遣いを教えてほしい。ただスチルという表現に、知らず、動きはじめ、生の開始をも伝える潜性性を読みとるようにして、からくもこの言葉を仮にもこの文中で置くことを自分にゆるすことにした。

*6:グラブルのみでなく「プリンセスコネクト!Re:Dive」を始め、だいぶ以前からスマートフォン向けに開発されているゲームシステムにおいてはまったく珍しいケースではなくなっている。

*7:「Return of the Obra Dinn」、PC、Lucas Pope、2018年。

*8:「Super Breakout」の英語版Wikipediahttps://en.wikipedia.org/wiki/Super_Breakout)などを参照。

*9:「近代ビデオゲームの原点『スペースインベーダー』を生んだゲーム業界の父!西角友宏氏インタビュー 前編」、IGCC、2019年。https://igcc.jp/西角友宏1/

*10:悪魔城ドラキュラ秘史 三日月の書」、「悪魔城ドラキュラ アニバーサリーコレクション」所収、PC、M2、コナミデジタルエンタテインメント、2019年。

*11:悪魔城伝説」、「悪魔城ドラキュラ アニバーサリーコレクション」、PC、M2、コナミデジタルエンタテインメント、2019年。。

*12:クロノ・トリガー」、PC、スクウェア・エニックス、2018年。

*13:「Helltaker」、VanRipper、2020年。

*14:「Stardew Valley」、PC、ConcernedApe、2016年。

*15:対称性と推移性の二項関係からアームストロングはこうした類似関係のあやを解説している。デイヴィッド・M・アームストロング『現代普遍論争入門』秋葉剛史訳、春秋社、2013年、p.86からの記述を参照。

*16:三浦篤『まなざしのレッスン 2 西洋近現代絵画』、東京大学出版会、2015年、p.117。

*17:画像はフランス語版Wikipediaに掲載のもの。https://fr.wikipedia.org/wiki/Le_Fifre_(Manet)

*18:「スターダンス」、泉和良アンディー・メンテ、1999年。

*19:パズル&ドラゴンズ」、インセルガンホー・オンライン・エンターテイメント、2012年。

*20:会話情景における画面の見え、テキスト、ウィンドウ、その全体を通じてキャラクターの現前を曖昧に感じとることがある、とでも言ったほうがおそらくより誤りがないのだろうにせよ、画像が置かれている位置自体からなにかが具体的に力をこめて散乱してくるように思えてしまうのもたしかだ。

*21:「雪道」、ポーン、2005年。「双葉の歌姫」、モスー、2011年。

*22:「くもりクエスト」、ポーン、ノラ、2006年。