部分的声?──ふりかえってもいないよ

 迷惑だったろうに車内灯をやめられなかった。CDを買えばライナーノーツ、ブックレットを開くのが待ちきれない。大きな市内に家族で買い物にでかけるというと、帰りは毎回暗みがかった夕方で、助手席で頭の上のライトを疑いなくつけ、さっき買ったCDを耳で聴き眼で文字を摂る・・・いそいそとして。それは、隣の運転席には迷惑なことに違いなかった。間近な光を頼りにして困らない者と、その光でかえって見えにくくなる者とがいる。言葉にしてしまえば平凡で後ろめたい挿話。

 「ウマ娘 プリティーダービー」(Cygames、2021年)の一場面から画像をふたつ抜粋する。

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 上掲のシーンにおいてはそれぞれ声優によるキャラボイスが流れる。そこでマチカネフクキタルと言えば「うう・・ええっとぉ」と声も弱々しく、秋川理事長は「なあなあ」とこちらの興味をくすぐるようにその声に誘う。だが、すぐ気づかれる通り、「うう・・ええっとぉ」も「なあなあ」もメッセージウィンドウに表示されたテキスト上には含まれてはいない。要するにここで声優によるボイスは、テキストで表示されるキャラクターの台詞を再現しはしない。同じようにセイウンスカイはその文字での台詞につれて「(あくび)」としか言いようのない声をもらすだろうし、アグネスタキオンは自身の掛け合いトークの補足のように「どうしたんだい?」とマンハッタンカフェにほくそ笑むだろう。それらはメッセージウィンドウに痕跡されない。もしくは・・。
 問題含みの言い方にひとまず道を譲ってやるのなら、このような音声として現れる「うう・・ええっとぉ」や「なあなあ」は、リアルにそのキャラクター自身の発語であるのと同時に、キャラクターがその場面でどのような態度や気持ちを抱えながら台詞を語ったかを声音として代表=表現する一種の指標として受けとられる余地はある。より不用意な言い方もできる。たとえば、このような場面での一言ボイスとは、自身のテキスト=台詞に対して、自ら見繕うともなく斡旋した「声の挿絵」のようにも、思われるかも知れないとひとまず言ってみる。つまらない話はどこまでも生産可能だ。キャラ会話すべてに声を吹きこみ収録することは労力的時間的金銭的にもとても「現実的ではない」しプレイヤーに必ずしも「求められている」ともかぎらないから、という理由づけでなにごとかを納得してみせるひとも、どこかにはいるのだろう。
 実際、人間の声に対する作品の側のふたつの主要な態度「フルボイス/サイレンス」という単純な二極の間にあって、一般的にはこれが、パートボイスと名づけられてさえいる枠組みなのだととらえておく。今更それが目新しいものではありえないことも知りつつ・・・普段、さらに言えば昔からだって、そうした表現にふれることがほとんどなかった私のような者には不意に「今」、「ちゃんと目新しい」のだと、わがままのようにも言っておこうか? 「言葉より声が聞きたい初夏のひかりにさす傘、雨にさす傘」(大森静佳)。アルルの魔法「ばよえ~ん」の効力は、その言葉の響きで相手を感動させるというものだった。魔法の言葉を口にする。その響きだけが結果。

 ボイス付きのゲームなんて、20年前からふつうにあった。でも、『ゼルダの伝説』では“アタリマエ”ではなかったし、必要ないと思っていた。なぜなら『時のオカリナ』以降の、セリフの冒頭につぶやきのような“謎の音”が挿入されるボイスシステムで、声を“想像”するのが、楽しかったからだ。*1

 だけれども、パートボイスというありかたも一瞬で判らなくなっていく。フルやパートなどといったボイスにおけるフレームが問題になるのには、前提として、そのキャラクターの言っていることがみな明らかであるポイントの現前が条件であるのだとは考える。一般にそのポイントは自然言語としてメッセージウィンドウに表示される。ボイスがどうこうとは、まずはそのようなテキストに「対して」という志向性を拠り所として言われてもあるのだろう(ある種の従属関係と言うと強く聞こえるだろうか)。この点でしかし、早くも「風のクロノア door to phantomile」(ナムコ、1997年)などでの異世界言語(ファントマイル語)表現はどう受けとったらいいかよく判らなくなってはくる。この作品では「な、なんだぁ?」という日本語字幕に対して「わぁ、わでぃでゅー?」、「何か落ちたみたい。夢と同じだ……?」という字幕には「ふぁーむにぃふー。ふぁーみるぷー」とこちらの耳には聞こえる声をクロノアは発し続けるだろう。こうしたゲームにおいてボイスは別世界の言語と翻訳関係をとり結んでいる。この時点で日本語のテキストを日本語のボイスで一字一句再現することをもってフルボイスと規定してみせるしかた、再現や従属関係で機能すると信じてみるモデルが不明瞭に感じられてはくる。失調するというのではなく、不明瞭に、という言葉を仮に選んではみた。しかもクロノアが、台詞とボイスという関係にとってけっして特殊なゲームの一事例という話でもない。上に引用したようなゼルダのようなスタイル、また近年の例では「UNDERTALE」のように人間の肉声ではないSEをテキストにあわせて再生するしかたも親しまれているだろう(ADVやRPGの台詞表象において伝統的なスタイルではある)。細かい話は措いて現に人間が吹きこんでいるかどうかでボイスという存在をきっぱり定義づけるのもいっそ、爽快なのかも知れない。しかし、ここまで広げて思うのならすでにボイスという生になにかひとつの限定づけを与えて済ませる訳にもいかなくなる。

 「ウマ娘 プリティーダービー」の、それから数多くのゲーム中で流れるボイスは、それぞれのキャラクターのサンプルボイス集から精選されたもののようでもある。悪く言っているのではない。声は──そこでのみ必然的に流れなくてはいけない、という理由の律を逸して、むしろここだけでなくどこで流れてもよかったのに、ここでやはり流れて固有の響きを立ててしまう、というありかたにとりつく。「(あくび)」や「わっはっはー」という声は、呼ばれたどのような場面にもそのリアリティにつれて感情の上で呼応してしまう。こうして私はADVのキャラクターの立ち絵を振り返っていきたくなる。立ち絵もまた、贅沢に描きおろされないということ、むしろ限られた枚数を使い回されることでどのような感情にも受け答えしてしまうスクリーンだったからだ。それはボイスが辿ってきた命運と似て、違う道を行った筈だった。

*1:ファミ通.com、「ついに発売! 『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』、担当者4人が冒頭をプレイした“ハイラル冒険記”」、2017年。https://www.famitsu.com/news/201703/03128209.html